運動学の父 ベルンシュタイン

20世紀前半、ソビエトアカデミーのバイオメカニクス室長ベルンシュタインは、生物に関わる基礎的かつ先端的な研究に携わっていた。

研究課題は動物の運動の原理である。

「運動」は一般の健常人にとってはあまりに日常的過ぎていて、山に例えるなら巨大な存在にも関わらず世界中の誰もが見慣れているため、その存在を日常ほとんど忘れて生活している。

しかしその核心を極めようとその頂を目指す者たち その専門家らにとっては、容易ならざる前人未到の頂きであった。

ベルンシュタインは、この動物の運動の原理に対する新ルート、革新的な解釈を発表する。

後々生理学の境界を超え生態心理学・アフォーダンスにおいて頻繁に引用される ベルンシュタイン問題である。

人間の身体は膨大な数の関節と筋肉で構成されており、それらを動かす組み合わせは途方もない数にのぼる。従来の運動理論では、脳がこれらすべての要素を個別に制御していると考えられていたのだが、これは到底現実的ではない。

彼はこの「制御されるべき自由度が多すぎる問題」をまず命題として提示し、この「冗長な自由度の問題」を克服するために脳は、個々の筋肉を制御するのではなく複数の筋肉や関節をまとめて機能的な単位として制御している、と考えた。

これが協調構造運動シナジー)である。そして「運動の学習」とは、この協調構造をいかに効率的に形成し環境に合わせて柔軟に使いこなせるようになるかのプロセスである、とした。

ベルンシュタインの理論は、運動学習を「あらかじめ決められた運動プログラムの実行」ではなく、環境との相互作用の中で、「膨大な自由度をいかに効率的に組織化し、調整していくか」という探索と適応のプロセスとして捉えることを可能にした。

この視点は、今日リハビリテーションなど多様な分野に応用されており、運動学の父と称される由縁である。

ベルンシュタインの企画した啓蒙書

彼の独創的な研究活動に対し、アカデミーからソビエト国民に向けた一般科学書出版の依頼通知が届く。

さっそく彼はその依頼を快諾する。職業的に運動に関わっている人々はもちろん、日々当たり前のように関わっていながらその中身を全く知らずに生活している国民に対して、自らの革新的な知見を披露することは、科学者として最高の喜びであったに違いない。

彼の背後に不穏な時代の大きな嵐が差し迫っていることを知る由もないまま。

ベルンシュタインと啓蒙書を襲う悲劇

ベルンシュタインの原稿は、最終校正を終えいよいよ出版を待つばかりであった。

そこに突然の悲劇がベルンシュタインとその原稿を襲う。

スターリン粛清による彼自身のアカデミーにおける失職と啓蒙書発刊の突如の中止である。

理由はいくつかあった。パブロフから続く正統学派との軋轢、ユダヤ人という彼自身の出自の問題などなど。

ベルンシュタインの失意は想像に余りある。

行き場を失った原稿は、家人にも同僚にも伝えられることなく自宅書棚の片隅に放置されるままとなってしまった。

1966年ベルンシュタインは癌死する。

ところが遺品を整理中に埃にまみれたその原稿が見つかるのである。

1980年代ペレストロイカの時代になり、彼の意思を引き継ぐ同僚らの手により国内で復刊。20年余りの空白を挟んでようやく日の目を見ることとなる。数年後にはヨーロッパでも刊行。彼の先見的で傑出した理論に対して、ベルンシュタインルネッサンスと称される一大ムーブメントが、皮肉にも西側世界の専門家の間で巻き起こることとなった。

ベルンシュタインの運動理論

ベルンシュタインは運動のシステムを動物進化の歴史から紐解く。

時とともに重なっていく地層の歴史と同じく、運動のシステムも古い層の上に新たな層が出現しその上にまた新たな層が重なっていく。

重層の階層構造として運動のシステムは成立していることを、ベルンシュタインは簡潔明瞭に主張したのである。

レベルA

人類は生物分類体系においては、動物>脊索動物>脊椎動物亜門Vertebrataに属する。

よって人間の直近の祖先は魚類に始まることになる。

人間の運動の原初的なものは、この水中を泳ぎ回る魚類の運動、体軸のシンプルな運動である。

ベルンシュタインはこれをレベルAと名付けた。

通常は裏方に回ることが多い地味な存在ではあるが、運動の最も基本的なものであり、多くの場面で最も重要な役割を担っている。

レベルB

魚類のしなやかな軟骨が硬く変化して骨組まさしく骨格が誕生する。ほどなくこの骨格をベースに、支点(関節)・力点(筋肉)・作用点すなわち梃子レバーアームが構成される。

体肢の誕生である。この新たな装備を元に安住の楽園 海中から決別して、過酷な重力下の世界 陸上へと進出する集団が出現する。

この運動レベルはレベルAに体肢の機能が付け加わった新たな階層レベルである。効率的な運動や重力下の高速移動を可能にした。

ベルンシュタインはこれをレベルBと名付けた。

バッタやトカゲや鳥類に観察される高効率で爆発的な動作である。

レベルC

レベルBの動作に神経系(錐体路)のサーボコントロールが付加されることで、爆発的ではあるが稚拙な動作(鳥の首振りや犬の尻尾振り)に、洗練された制御系の緻密さが付加された。

ここにおいて初めて巧みさが誕生することになる。

レベルD

動作の最高レベルである。全ての動物種の中で人類だけが到達したレベルである。動作とともに並行進化してきた神経系の最高レベル(大脳皮質)のサポートがあってこそ到達できた。

ベルンシュタインは動作の最高位の称号として人間のレベルとも呼んだ。

(デクステリティ 巧みさとその発達 、ニコライ A.ベルンシュタイン 著 、金子書房)

special thanks to

・伊丹康人先生

 故 東京慈恵会医科大学整形外科元主任教授

・別府祐美子、石井千恵 両先生

 およびメディカルフィットネス研究所の皆様